あすは、わが子の入学試験の発表があるという、その前の晩は、親としての一生のなかでも、いちばん落ち着かなくてつらい晩のひとつに ちがいない。 もう何十年もまえ、ぼくが中学の入学試験をうけたとき、発表の朝、父がこんなことをいった。 「1お前、きょう落ちていたら、欲しがっていた写真機(注1)を買ってやろう」 ふと思いついたといった調子だったが、それでいて、なんとなくぎごちなかった(注2)。2へんなことを言うなあ、と思った。おとうさんは、ぼくが落ちたらいいとおもってるのだろうか、という気がした。 3そのときの父の気持ちが、しみじみわかったのは、それから何十年もたって、こんどは自分の子が入学試験をうけるようになったときである。 おやじ(注3)も、4あの前の晩は、なかなか寝つか(注4)れなかったんだな、とそのときはじめて気がついた不覚(注5)であった。おやじめ、味なこと(注6)をやったなとおもった。あまり好きでなかったおやしが、5急になつかしくなった。 (中略) もし入学試験に落ちたら、いちばんつらいのは、もちろん親よりも本人である。 それを、6親が失望のあまりついグサッと胸につきささるようなことをいったら、ということになる。 よし、おやじにまけるものかと決心した。ほくはすぐ感情を顔に出し怒り声になるタチ(注7)である、落ちたときいた瞬間にいう言葉を、二、三日まえから、ひそかに(注8)7練習した。 「そうか( 8 )、こんなことぐらいでがっかりするんじゃないよ」 くりかえしているうちに、自分が、まず落ち着いてきたのが妙だった。 (「もし落ちたら」1963年2月3日付朝日新聞朝刊による) (注1)写真機:カメラ (注2)ぎごちない:不自然だ (注3)おやじ:父。おやしめ:ここでは父親のことを親しみを込めて言っている。 (注4)寝つく:眠りの状態にλる、眠りにつく。寝うかれない=寝つけない (注5)不覚:不注意で十分考えていないこと (注6)味なこと:ふつうとちがったじょうずなやり方 (注7)タチ:性格、性質 (注8)ひそかに:人に知られないように