ともかく、ぼくは人間の顔を見たくて講演に出るのです。しかし悲しいことに、ぼくは、そこで管理された聴衆にしか出会わない。 ぼくと聴衆に間に割って言ってくるのが、司会者と呼ばれる人たちです。 (中略) つい最近のことです。こんな体験をしたことさえあります。 ある高校で、ぼくは話をしました。高校生には、笑い話からいることにしています。笑いで、1反応を見るのです。話を聞いていなければ笑えないですからね。また、どの程度のユーモアが理解できるかが分かれば、どのていど難しい話が理解できるかも分かる。また笑わせラバリラックスさせることができる。リラックスして聞けば、さらに話がわかるようになるだろう。2そんなことをねらって、まず笑い話というわけです。 ところが、その高校では、笑い話をしても、聴衆は静まりかえっているのです。ぼくはドキッとしました。そして聴衆を見つめました。数人が、ぼくの方が向いてニコニコしていましたが、かなりの人間が下を向いています。下を向いている人がどんな顔をしているのか、残念ながら、ぼくには分かりません。 そこで、人間ならたいてい笑う、という話をしました。でも、ちょっとざわついた程度です。ぼくはあせりました。そして、とっておきの、馬でも笑うという話をしました。でも、笑い声が起きないのです。少しはクスクスという声がしますが、どうしても、ドッと来ないのです。ぼくはあせりました。ぼくのユーモアのセンスは古くなって、もう今の若者には通じないのか、そう考えて自信を失いかけました。 ぼくはやぶれかぶれの気分になって、ともかく話をおえ、応接室までもどると、数人の生徒が、ぼくに面会を求めてきました。もちろん、ぼくは喜んで彼らに会いました。あの反応の鈍かった生徒を、すぐ目の前に見ることができるのです。その機会を逃げす手はありません。 ( 3 )、その生徒たちがぼくに何といったと思いますか。信しられますか。ぼくの話を聞いて、笑うまい笑うまいとがまんするのに骨が折れた、というのです。彼らはいいました。「先生が、次から次へ、おかしな話をなさるので、がまんしていると涙は出る、おなかは痛くなる。もう苦しくて苦しくて、死にそうでした。」 ぼくはあいた口がふさがらなかった。これではドッと来なかったはずです。全員を笑いの渦に巻きこめなかったはずです。ぼくは、笑いたければ、笑えばよかったのに、なぜがまんなどしていたのか、と生徒たちにいいました。そして、答えを聞いて、4あいた口をますます大きくあけました。 「なんですか!笑ってよかったんですか。わたしたち、5笑っては失礼になるといわれたので必死でがまんしていたんですよ!」 ぼくは、生徒たちが、そういうのを聞いたのです。