(1) 「自由主義社会」 とは、どのような社会でしょうか。「個人が自由に、すなわち、自分勝手に好きなようにしても良い社会」でしょうか。もし、 (2) このような定義 が[ A ]ならば、個人のエゴイズムをどこまでも追求できる社会が、「自由主義社会」ということになります。そうすると、殺人者も肯定されることになります。彼は自分の好きなように人を殺したのですから。「自由主義社会」とは、本当に (3) このような社会 のことでしょうか。 先の段落であげた殺人者の例を考えてみましょう。殺人者が存在する限り、被害者がいるはずです。殺人者が肯定されると、この被害者の「生きる」という自由が剥奪されたことになります。ある個人が自由を行使したことで、別の個人の自由を剥奪されることも肯定することになりますが、こうなると、最初の「[ B ]」という定義が、 (4) 矛盾 を起こすことになります。個人のエゴイズムを際限なく追求すると、他の個人の自由に支障をきたすというわけです。 この矛盾を解決するために用いられるのが、 (5) 「他者危害の原則」 です。「他者危害の原則」は、自由主義の則と考えられています。現代社会では、 (6) これ だけでは対応できない問題が山積みになりつつありますが、少なくとも、この原則が無くなることはないでしょう。この原則は、字義通りにとると、「他者を傷つける原則」などととれそうですが、違います。「他者に危害を加えなければ、何をしても良い」ということです。例えば、危険なスポーツをすることもそうです。スキーのジャンプ競技というのは、明らかに危険なスポーツですが、そのスポーツをするのは、選手の自由です。また、煙草は、人体に有害ですが、それを吸うのは個人の自由です。どちらも、他者に危害を与えていないという点で、 (7) 個人の自由になりうるもの です。もちろん、煙草は、その煙が他者の危害になることがありますので、禁煙の場所で吸うと、「他者危害の原則」にふれることになります。 (8) 厳密には、路上で吸っても「他者危害の原則」にふれることになります。 このように考えると、「自由主義社会」というのは、「他者危害の原則にふれない限り、個人の好きにしても良い社会」ということになります。ですが、この「他者危害の原則」は、則に関わらず意外と見落とされやすいものです。また、どこまでが、「他者危害」に該当するのかも (9) 問題 となります。前段落で挙げたこともそうです。路上で排出される煙草の煙を他者に吸わせてしまうことも危害となるのか、自動車の排気ガスもそうなるのか、などということも問題となります。実際、工場から排出される煙によって、喘息になったという公害問題も、 (10) 「他者危害の原則」と深く関わってくるもの なのです。