ら抜き言葉 「見られる」を「見れる」という。「食べられない」は「食べれない」。同じように「出れる」や「起きれない」。いわゆる「ら抜き言葉」というやつだ。総理府の「国語に関する世論調査」によると、この言い方が「気にならない」人は 20 代で 74.6% 。 4 人に 3 人という高率だ。地域的にも偏りがある。関東地方では「気にならない」は半数以下。北海道や北陸地方では 70% を超える。 筆者などは、気になるどころか、こういう表現に接すると( 1 ) 気分が悪くてぞくぞくする。 (A)( ) 、だからといって目くじらを立てても仕方がない。言葉はこれまでも、これからも時とともに変わる。好みに関しては、常に、人は人、自分は自分である。 (B)( ) 、どうしてこういう言い方が多くなったか。「ら」を省く。快速、短縮が時代の気分とでもいうのだろうか。本来「れる」「られる」には、( a )( ) などの意味がある。 例えば「人に見られる」は受け身を表し、「彼女は信じられる」は可能を、「気配が感じられる」は自然にそうなるという意味の自発を、そして「先生か " 帰って来られる」は尊敬を表す、という具合だ。 ところが、それらの様々な意味を持つ「見られる」と違って「見れる」は( b ) ( ) の意味を示す時だけに使われる。「乗れる」や「帰れる」と同様に、「れる」は (c)( ) と決めればいっそすっきりする、と考える人もいる。 積極的にそう考えた上で人々が「らを抜いているのでもあるまい。だが、単純に (d)( )の意味だけを伝えるという結果になれば、それはそれで目的にかなうのかも知れない。( C)( )、何となく自然発生的、お天気まかせ的な自発の要素をも含む「られる」の重層的な含意は、失われてしまいそうに思える。